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アルバニア人の性格


「アルバニア人」っていうと、そもそもそう呼ばれる民族の存在を知らないパターンが多いですね。

「シルバニアンファミリー?」って聞き返されることもあるくらい。

逆に知っている人からは、「危なそう」とか「変わってそう」とか。

今回は、日本にいる限り別に知っても得しないアルバニア人の性格についてまとめてみました。

でももしバルカンやウィーン、ドイツ、スイスに行く人は、知って損はないと思います。

予備知識があるかないかで、彼らとのファースト・エンカウンターのときの衝撃が若干和らぐと思うので。

落ち着きがない

落ち着きがない人が多いです。

コソボでは人口の約50%が失業中と言われていて(若い人の割合はもっと多い)、毎日することがない人がたくさんいます。

収入がないのですから、そういう人は家でおとなしくしているのかな、と思いきや、毎日外に出かける。しかも何回も。

家でじっとしていることができないみたいです。

今年の夏はある家族の家の一部屋に間借りをして住んでいたのですが、そこの家族のお父さんがまさにそのパターンでした。

いい歳の人間がそうなのだから、若い人は推して図るべしです。

会話中も相手の話にじっと耳を傾けることはできず、道行く他の人を目で追うとか、携帯をいじるとか、貧乏ゆすりが止まらないとか。

映画館でもおしゃべり、携帯、上映中に何度も売店に行く。

とーーにかく大人も子供も注意力散漫。

その割に、夜飲みに行くと全然動かないのも特徴。

音楽が鳴っていても踊らないし。

よくそんな何時間も(時には朝まで)同じ場所で同じ人と座っていられるなぁ、と感心します。

盛り上がっているならまだしも、特別誰も楽しそうじゃないときも、我慢大会か何かのようにじっと同じテーブルに座り続けています。

人の話を聞けない

アルバニア人文化はおしゃべり文化。

日本人同士のコミュニケーションのように、相手の態度やしぐさといった言語外の情報から相手を知る、ということはしないです。

言葉で表現されたものしか存在しないものとして扱われます。

そしてさらに、せっかく頑張って言葉にしたのに、高確率で相手に伝わらないです。

相手の言っていることを自分のフィルターで変換してしまうんです。しかもそのフィルターの分厚過ぎること。

自己流に受け取られてしまうので、あとからいくら「違うよ」と訂正したくても無理。

彼らの中ではすでにそれで筋が通っているのですから。

なので、偏見(文字通り偏った見方)が強い。あと、いろんなことをステレオ・タイプ化することも多いです。

結論ありきで話すので、話し合いは不毛に終わります。

一度決めたら意志は変えない

頑固な人が多いです。

一度「こうする」という態度を決めたら、あとは盲信的にそれをやり続けます。

でも「なぜそうすると決めたのか」を深く掘り下げて聞いてみても、何の根拠もなかったりするのが大半。

例えば友人関係。

「あいつはいいやつだ」というのの理由が、「なぜなら俺の(私の)友達だから」。

「友達であると決めた」から「そいつはいいやつ」、だから「ずっと友達でい続けよう」という心理のようです。

そこに好きとか嫌いとかいう感情や疑問を挟む余地はなし。

それでいて、なぜ友達になったのかを聞いてみると、「学校が同じだったから」とか「いとこの友達だから」とか。

まぁ、世間が狭いからこういうことになる、と言えなくもないですが。

誰に対してもフレンドリーだけど別に新しい友人を必要としているわけではない

上記のこととも関連しますが、彼らの世界にはすでに幼少の時からの知人・友人が溢れています。

そしてほとんどのコソボに住むアルバニア人は、今自分がいる世界からもっと広い世界へいくことはないので(進学や就職によって生まれ育ってきた場所とは完全に異なる場所にいくことはほとんどない。出稼ぎは別だけど)、

これ以上自分の交友関係を広げる必要がありません。

アルバニア人は陽気で人に対してフレンドリーな態度の人がほとんどですが、それはただそういう気質なだけ。

そういう態度をとることにそれ以上の理由はないようにみえます。

外国人に対してもすぐ話しかけてきてくれるし、とってもフレンドリーです。

知らない土地に来た外国人からすれば本当にありがたいし、受け入れられているような気持になるので嬉しいのですが、

いざ親しくなろうとすると、のれんに腕押しというか、はじめの入口の部分からなかなか先に進ませてもらえない。

あの親しさはなんだったんだ?!と、はじめのフレンドリー・インパクトが強い分、よけい狐につままれたような不思議な気持ちにさせられます。

まぁはじめの間口は恐ろしく広いので、それで十分といえばそうなんですが…。

なんでも分け合う

コソボでは、例えば友人たちと集まって囲んでいるテーブルに何かを置いておくと、

特になにも尋ねられず友人がそれを使ったり、食べたり、飲んだりするのが普通です。

そんな場面で、「それわたしのなんだけど…」などと言おうもんなら、全員に白い目で見られます。

ここでは、テーブルの上にあるものはみんなのもの、という認識です。

あとよく見かけるのは、タバコの譲り渡し。

自分のがなくなっちゃったから友達からもらうのはまだわかりますが、道行く知らない人からももらいます。

そしてどんなに自分の残りの分が少なくても、相手に多めにオファーします。一本だけあげるというのはまず見たことがないですね。

「自分のもの」と「他人のもの」の境界は相当薄いです。

人が自分のものを使うのに全くといって抵抗がないですし、逆もしかり。

お金のこともそうなので、きっちり割り勘したい、というタイプの人は苦労するでしょう。

日本では家族の間柄でも「自分の茶碗」とか「自分のバスタオル」といってものを分けるよ、と言ったらすごく驚かれました。

コソボにいていとも簡単に仲間に入れてもらった気になるのは、

アルバニア人たちの、他人や他人のものに対する垣根の低さからくる扱いのせいだと思います。

その他、すぐコーヒーを飲みに行くとか、政治の話になると熱くなるとか、知らないもの・新しいものを極度に怖がるとか…もっとありますが、それはまたそのうちに。

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