というわけで、前回書ききれなかったDokufestにまつわるあれこれを思いつくまま書いて行こうと思います。
ちなみに前回書き忘れたけど、「DokuFest」は「ドクフェス」と読みます。なぜか「ドクフェスト」ではないんですね。
あと、「DokuFest」の「Doku」ですが、これは「ドキュメンタリー」のアルバニア語「dokumentar」の最初の「Doku」と、あと、「おいでおいで、いらっしゃい」という意味のアルバニア語(どんな単語かは忘れました)の「Doku」をかけているそうです。
プリズレンには「Dokuなんちゃら」という店がたくさんあります。
「Doku Pharm」(薬局)とか「Doku Burger」(ハンバーガー屋)とか。
とまぁ、ここまでの話だけでも想像に難くないと思いますが、ほんとプリズレンの町はこのDokuFestのために1年を生きているといっても過言ではないほど、町のみんなにとってこのイベントは重要なものなのです。
そもそもどうやってこの映画祭が始まったかというと、趣味で映画を観るのに集まっていた仲間同士がプライベートの延長でイベントに発展させたらしいです。
初めの年(2002年)はほとんど予算もない状態で、関わりたい人がボランティアで参加して始まりました。
わたしの友人の一人は初めの年のボランティアメンバーの一人なんですが、彼曰く「初めの年が一番面白かった」そうです。
ボランティアでDokuFestに参加することは地元の若者(主にティーンネイジャー)にとって、ある種の通過儀礼というか、ただ手伝う以上の意味を持っていることは間違いありません。
それこそ日本の田舎の祭りにその地元の若者が参加するのと似た感覚だと思います。
その期間だけいつもの自分を超えた何者かになれるというか。
でもこれはプリズレンの町に生まれそこに住んでいる「町の人」用のイベントだという事実もあります。
プリズレン周辺にはいくつもの村があるのですが、ここには外国人のわたしにはあまりわからないけど地元の人にははっきりと見えている「境界線」があって、彼らの中では「プリズレンの町の人間」か「それ以外の村の人間」か、という区別がしっかりあります。
コソボ紛争のとき、プリズレンは幸運にも大規模な被害を被らずにすんだのですが、それとは逆に、その周辺の村ではかなりの破壊・攻撃がありました。
そしてその村々は実は今でもそれからの復興に、特に精神的に苦しんでいます。
ある友人はその大規模に攻撃された村の人なんですが、家を爆撃で失い親族も亡くすなどもあり、紛争後はプリズレンの町に越してそこで生活をしていました。
そんな彼にとってこのDokuFestは、どうもノレない行事というか、「コソボという国の本質的問題から目をそらしてちゃらちゃらしてるだけ」に感じるそうです。
わたしの知り合いの中ではこの人だけが唯一のアンチドクフェスですが、まぁそういう一歩引いた意見ももちろんあるだろうし、国際支援団体も「文化的なイベント=だからいい」と盲目的に称賛・サポートするのはどうかな、と思わなくもないです。
…話がそれました。。。
もっとコソボやバルカンの人が映画や音楽とどのように関わっているか、ということを書きたかったのですが、それはまた次回以降で。